昭和四十五年三月二十一日朝の御理解

第九十四節「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」

いろんな宗教がありますがその、いろんな宗教が段々年代を重ねて行くに従って、大きくはなりますけれども、活きたものを亡くして行く、いわゆる宗教の色彩と言うものが薄うなってくる、それはどういう風な事の為だろうか。?段々大きくなるとか、人間が長いとか言うような事がどうして、宗教本来の人が助かると言うような事に縁が遠うなって行くかと言うと、
私は(声が小さい)結局信者に不同の扱いをすなと教祖様は仰る、信者に不同の扱いをするようになるからだと思いますね、自分の宗教をより立派にして行く、しようとする、また皆んなに認めさせようとする為に、どうしてもお金だからお金を沢山持っておる人に目をつける、またはそれを色々信用させる為に、まあ信用ある人、または学問のある人と言ったような人を大事にするようになる、
本当に言うならば庶民の中にあってと言うか、難儀の氏子の中にあってです、その難儀な氏子が本当に助かって行く、生き生きとしたいわゆる布教といったようなものが、なされないからだろうと私は思います。ね、ただ形を立派にして行く、広げようその為にはお金を沢山持った人、ね、財の力持った人、または頭の力を持った人、また地位やら力やらでそれをなして行こうとしたりする、
そういう所に取り入るような生き方をする、これはお道の信心でも言われる事ですけれども、お道の信心は中々まあこりゃ教外者が見てです、まあお上品な宗教だと言われておりますね、それはしかし良い意味合いだけじゃないと思います。そりゃまあべっととしましてですね、とにかく金光様のいわば、あ、お道の信心はね、学者に弱いと言われてるんです、ね、
なんなん学士と言ったような人に弱い、ね、だからエーその大学を出た人達を、各教会にね、エー、調べられるような事があるんです、そういう人達を使おう、そういう人達を使って御用して貰おう、そうすると皆んながよく納得するだろうと、言ったようなものじゃないでしょうかね、私はですねそういう事でなくてね、本当に信心に手厚い人、信心の篤いのが真の信心と仰る、
いわゆる真の信者を探すような事をしないように思いますね。いわゆる真の信者を大事にしようとするような、向きが非常に少ないですね。それには色々と非難を付けたりするような、向きすらがあるような感じがする。まあ言うならそういうような事がですね、やはり煙のない所に噂は立たんであって、金光教が教外の人達からですね、お上品だとか、お上品な信者だけを例えば目をつけとる訳でもなかろう、
それは教祖様の難儀な氏子とこう仰しゃいますから、難儀な氏子が取り次ぎ助けられる事が、大体焦点である筈なのにも関わらずです、んなら学者に弱いと言ったような事言われると言う事は、これはチョット考えなければならんのではなかろうか、成る程学者が真の信心を求めてやって来る事は大歓迎、ね、沢山ないわば財閥と言われるような人達がです、真の信心を求めてやってくる事はこりゃ有り難い事でございます。ね、
こりゃ私いつも思うんですけどもね、私ある先生方の会合でこりゃ昔信者時代にですね、ああたんとこ町内になになにちゃんと言う酒屋さんがあるじゃんの、あげんとを信者にせな、と言うような話を聞いた事がある。酒屋さんちゃ昔から金持ちに決まっとる、そういうですねそういう例えば、町内なら町内の中にまあそういう財産家のごとあるとに、目をつけるごとある信心じゃ絶対おかげ頂かん、
本当な事になって来ない、言うなら本当に難儀な氏子が取り次ぎ助けられて行くと言う事に焦点を置いときゃいい、ね、金もない、地位もない、頭もない為に世の中の下積みで難儀をしておると言う人達にです、目を向けさせてもろうて、私そこからその人達が助かって行く事を、願いとする信心でなければ私は長もてせんと思いますね。ね、例えば大きな宗教はいくらもあります、
ね、仏教に置いてしかり、キリスト教に置いてしかりでありますけれども、それは美しい事を、が、あ言えれると言う事は、まあ有り難いけれども、美しい事になっただけではいかん、上品になっただけではだめ、ある場合にはがむしゃらな事もあってよかろう、ちったげさくな所があってよかろう、けどもそこにギリギリです、ね、難儀な人達に接して行く為の信心と言う事になってくるとね、そうお上品な事やら美しい事ばっかり言うちゃおられん、
ね、根本的に人間が助かって行くと言う働き、生々しいまでのそこに、昨日の御理解を借りてご利益、ね、一心に縋らなければおられない、頼まなければおられないほどしの難儀を抱えた人達がです、救われ助かって行く道を本当に伝えさせて頂ける信心、ね、ですからそういう人達ですから、確かに物を余計持ってくる事は出来んでしょう。ね、物をよけいに持ってくると、
それを大切にするような事では、例えば貧乏な人がしようと思うても出来ないのです。ね、けどもそういう人達がです、私はおかげを頂いて、神様のおかげでそんなら億万長者になると言うような、おかげを頂いて始めてお役に立つと言う。ね、根本からおかげを頂いての実感が強いからです。教祖様の中のお言葉の中に「親の心を子が知らん親神様も涙を流しておられるわい、親の心を知っておかげを受けよ」
ね、どうでしょうか、金光様の信心が難儀な氏子救在の為にです、この世に金光教と言う信心が生まれた、難儀な氏子取次ぎ助けてやって来れ、と言う天地の親神様の切実な願いをです、教祖金光大神にご依頼になった、お頼みになったここん所から私思いおこしてこなければいけないと、ね、学者を大事にしてくれとか、たくさんの財閥を目当てにしろとか、ね、
と言うふうには仰っていないでしょうが、ところがです、ね、極端にそうではないでしょうけど、なんとはなしにそう言う事になって行く宗教は必ずもう、成る程そういう事に問答いたしますから、そうなってくるかも知れませんけれども、生きた物を亡くしてくる。それはどういう事からかと言うとです、いわば立教の神殿と、お道の信心がどういう所から、起こらなければならなかったか、と、
この世に金光教と言う信心がなからなければ、どういうふうにならなかったか、と言う事はです、難儀な氏子救在にあるんです。ね、金光大神のように、言うなら実意丁寧の限りを尽くされる、ても御信心をなさる、大きな手本と言うものがそこに必要である、そういう人の取次ぎというものによってです、言うなら難儀な氏子が助かって行くと言う事が、親神様の願いなのです。
ですから親神様の心を、親が子の心を知らんから、そう言う結果になって来るんだと私は思うんです。ね、それこそ屑の子ほど可愛いと言うのが親心、難儀をしとけば難儀をしとる子ほど可愛いのが親心、それでもどうにも出来ない、神様としてどうにも出来られないから、ね、そう言う難儀な氏子が取り次ぎ助けられると言う事は、取り次ぐ事によってです、人間の幸せになって行く道を教えてやってくれと言う事なんです。
親の心子が知らず、親神様も涙を流しておられるわいと言う事、親の心を知っておかげを受ける親神様がですね、そういう言わば下積みになっておる人達の姿をごらんになってです、泣いてござる、ね、その親心を信心させて頂く者一人一人が分らせてもろうて、ね、自分のおかげを受けて、
行っておる事を人に伝えて行くと言うようなです、信心にならせて頂ないけんと私は思うんです。今朝から私いろいろ頂きました事、例えば古い物いわゆる骨董品、ね、骨董品の値打ちと言うのはですね、古いから値打ちと言うんじゃないです、古い物がですね、新しくしておると言う事が値打ちなんです。しかもそれが実用に値すると言う事が値打ちなんです。
例えばこれ骨董品茶道具と言った方がいいかも知れませんね、「詫び」とか「寂び」を尊しとする茶道に置いてですね、やはりできるだけ言うならば「詫び」のかかったもの、「寂び」のある物そういう物がお道具なんかにも選ばれる訳なんです。ね、ですからそれが古い物であれば、古い物である程値打ちがあるんです。しかし扱い崩れるようなもんでは値打ちはないんです。
お茶碗ならお茶碗がですね、それがですもうこれは何百年前も前のだけれどもです、一切の茶席でそれが使えれんと言う事、それを鑑賞してから素晴らしいと、鑑賞の価値があり、だけではなくてそれが使われると言う事、が、値打ちなんです。ね、信心はね、だから古いだけが値打ちじゃない、もう実用にですね値しない宗教はもうなくなってしまった方が、よかぐらいです本当は。
ね、骨董品のもう使用価値のない物と同じ事です。皆さんそうは思われませんか?ね、昨日ローマ皇王ですね、キリスト教のまあ言うなら一番偉い人らしい、のメッセージを私が昨日の総会の時に読ませて頂いたが、実に素晴らしい言葉がつずりされておりますが、ああ言う事言いよったんではいつまでたっても、世界平和に貢献する事は出来ません。それは理想かも知れません。
それを例えば昨日の御理解から言うと、言わば天の事は言うな、ね、天の事は空論と教祖がもう言わば、もう厳しゅう喝破されております。ね、そういう美しゅう事はもう空論なんだ、何故そういう事しか言えなくなったか、?ただ古いばかりの言わばその『がねうちと言う座に治まっているからです。』ね、それに対して仏教なんかいよいよもうない方がよかぐらいですね、
まあない方がよかち言うが、まあ葬式請け合い業ぐらいに看板変えたらいいとですよ。ね、人が助かると言ったような事に生き生きと働きを持たないんですもん、そこにうなら私共金光様の御信心頂いておる者、金光様は果たしてどうかと?、金光教は果たしてどうかと?、もしですね、学者が大事にされると言ったようなですか、ね、金持ちが大事にされると言ったような事がです、
少しでももしあるとするなら、それが段々それが大きくなって行くでしょう、そして学問のない者やらは軽く見られる、金のない者は言わばあしらわれると言ったような、もし結果になったらどう言う事になるでしょうか。なんとかと言う流行歌手がおりますね、えー名前忘れましたが、自分の声に何千万と言う保険をかけておるち言うんですね、自分の声に何千万の保険をかけておるから、
いつ声が止まっても、ね、人気が落ちてもまあ言い訳ですよね、声に自分の喉に言わば何千万と言う保険をかけておる、私は思うんですけどもね、私共は何処までも天地が保証して下さる、ね、保険をかけておかなければいかんです。天地が保証して下さる、私今日仏教とかキリスト教の事を仲がいいと言ったような事を、言葉の弾みですから実際はそうじゃないですね。
そりゃあれだけの沢山な信者を傭しとる、宗教ですからねそりゃそれなりに、私は思うのにですね信心のない人、宗教心のない人に、ね、金光教の信心はは向けられなければいけないと思いますね、いよいよそして本当にですおかげの受けられる道をね、教えて行かなければいけないと思うんです。ね、仏教で慈悲を説き、キリスト教で愛の心を説く愛を説く、所がですね慈悲の心やら、
愛の心を高めて行ったとしてもです、実は本当を言うたら実際高められないです、ね、何故高められないか?何故それが本当に普及しないかと、言うとですね、それはねなんと慈悲の強い人は有り難いですよ、慈悲心の強い人は、有り難い仏様のような人、けれどもそれにはね、おかげがともないませんもん。ね、愛の心が強い人があります、けれどもね愛の心にはね、言わばおかげがともないませんもん。
ね、それは素晴らしい事です、ね、言うならばおかげがともなわないと言う事は、天地が保証してないと言う事なんです。ね、これはいつの時代までもそれこそいついつまでも、これなら神様が保証して下さると言う心が和賀心です。ね、この和賀心にはです、もういつの時代になりましても、この心を頂きその心を育てて行こうとする意欲さえあるならばです、神様が絶対の保証をして下さるです。
おかげの裏付けをして下さるです。天地が保証して下さるです。そうしてその上にです、愛の心であり、慈悲の心なんです。ね、他の心には神様は保証しなさらんです。そこでねお互いがいよいよです、和賀心を目指しての信心をです本気で頂いて行かなければいけない。ね、昨日の総会にいままでの総会と違ったのには、ひと月後に控えている御大祭が、ね、今からでも遅くはない、
本気でひと月間修行させてもろうて、そのひと月後の大祭をいよいよ有り難い、ね、有り難いと言う、その盛り上がりの大祭にさせて頂こうと言うような事でしたけれども、昨日はそうではなかった、合楽の信奉者の全部がです、ね、言うなら「和賀心時代」に突入しておると言う自覚を持って、ね、言うなら和賀心運動にです、合楽全体が一代大きな家族と言うように、
思うてその尊い運動に言うならば、署名捺印させて頂いたと言う事を持ってです、今度の大祭のお礼にしなければいけない。ね、千里の道も一歩から、そういうです、ね、今日私が申します、その和賀心と言うものには、いつの時代にもです、神様が保証をなぎなさる事の絶対のない所のこれは大法則とでも申しましょうか、ね、愛の心には保証がない、慈悲の心には神様は責任をもちなさらん、
いくらあの人は仏様のような人じゃと言うても、ね、貧乏しとる人が沢山あるでしょう、そりゃもう愛の心ならだぶだぶ持った人がありましょうが、いやらしい愛の心持った人があります。私知った人が婦人のお医者さんでしたが、非常に熱心なクリスチャンでした、その人達が夫婦別れを、ご主人は軍人さんでした、所がもう愛の心を稽古しちゃるもんですから、
もうご主人が軍服姿のまま帰ってきなさると、抱きついてから「お帰んなさいませ」(初代も皆んなも爆笑)ち、抱きつかしゃる、もうそれがいやらしゅうてこたえん、けれども愛の心がだぶだぶしとるもんだから、(爆笑)外套ぬがんさきから、抱きついてから「お帰んなさいませ」ち、愛の表現するもんですからね、とうとうそういうような事が元で別れなさいました北京時代の事です、
ね、だから愛の心にはね、愛の心では駄目なんだ。ね、和賀心があっての愛の心なら別です。和賀心があっての慈悲ならこれは尊いです、ね、ですから皆さん本当に金光教の信心の素晴らしいと言う事はここ、これだここだ、だからここん所をですこん年は私共がおかげを頂く為と言う、小さい見解ではなくてです私共が千里の道も一歩からと、そういう尊い事をです、
信心のあるものないもの世界中の難儀な氏子の上にです、これから押し広めて行こうとする、ね、そう言う尊い運動にお互いの一人一人がです、言うなら署名捺印して和賀心運動に、参加させて頂いておる私達と言う自覚に立って、おかげを頂いて行こうと、ね、これならばですこれが千年万年お道の信心が続いてまいりましてもです、ね、例えば現在大宗教に見られる所のですね、
生きたものを色彩を欠いてしまっておるといったような、結果にはならんだろうと思います。ここん所を焦点に置いていったら、言うならです、ね、信者に不同な扱いをすなと仰るのに、ね、学者だから大事にするとか、お金を持っとるから大事にするとか言ったような事でなくて、いよいよ難儀な氏子を対象としてのです、信心にお道の信心が焦点が置かれて、
しかもその焦点が和賀心に焦点が置かれての、信心が布教されて行くならばです、所がですすこーし例えばその、言うならそこからくずれはせんかと思われるような、ものを私は教団に感じるです。ね、それがいまも沢山ありますよ、ね、ただ教学的だけになって行くといったような事もやっぱその事でしょう。より美しごとです言うなら、ね、美しごとばかりいうなら金光教の信心は、
お上品だと言われるのはありゃ悪口だと思わないかんです、金光教が学者に弱いと言ったような事はです、もう本当に私はハットするほどに感じなければいかないです。ね、世の中の本当にそれこそ片隅で下積みでです、ね、誰も見向きもしない難儀な人達が沢山あるのです、ね、その人達にです私共が頂いておる和賀心、そのおかげに和賀心の伴うおかげを私共が、
おかげの見本を引っさげてです、ね、その人達の救在の為にあたらして頂くと行ったような信心がです、私は和賀心運動だと思います。只和賀心運動和賀心運動言うとるだけじゃ駄目、それを自分自身が頂いて現して、ね、それが難儀な氏子の上に伝えられて行くと言う事なんです。その為にはですね、決して人に認められる事はいらんです、ね、合楽の信心が人に例えば、
ね、第一言うならば本当に私の信心、親にぐらい分ってもらいたいこりゃ切願でした。例えば善導寺の親先生に信心分ってもらいたい、と言う願いは本当思いました。親に分ってもらわれと言うぐらい悲しい事はないですよ。本当は、ね、自分の周囲の言わば教会の方達にでも認めてもらいたいと、まあ思った時代もないじゃないけれどもです、もうそう言う事はさらさら捨てました、
ね、認めてくれなければ認めてくれないでもいいんだ、分らんなら分らんでもいい、ただ神様からだけは認めてもらいたい、ね、神様に認められていっておると言うひとつの実感ですか、ね、それだけが楽しみなんです、言うならばです、人に笑われてもです神様から笑われるような事があってはならんと言うのが、これは私二十年間その事は考え続けた事です。
だからね私が笑われまいとか、悪口を言われまいと言う手立てをするなら、たくさん手立てはありましたんです、言うなら本部にでももっと早く私教師にでもなれたでしょう。ね、私その線でいっとるなら、けれどもね、それでは現在の合楽の御比礼はありませんもん、ね、人はいつか分ってくれる、必ずいつかは分ってくれるとそれなんです、だから神様に認められて行く事、
神様に笑われんごとと言う信心だった、ね、それを確かめ確かめしてきたのが、和賀心なんです、私の心の中にこれほどしの和賀心が、育って行きよるんだからおかげになる、それなんです、ね、皆さんもそうでしょう、ね、所謂義理人情と言ったような事は一遍捨てなさい、ね、そしてあの人は不義理な人じゃなかろうかと、ね、言わばあの人は人匪人と言われるかも分りません、
私も言われてきたですもん、ね、ですから私共本当の意味に置いての人匪人を目指しました、ね、私共もう神様になる稽古一生懸命してきました、その時代やっぱり人は人匪人と言いました、ね、本当に義理も人情も知らんやつだとも、言わば悪口を言われてまいりましたけれどもです、ね、義理人情じゃ人は助からん、ね、そこに例えば私がよく使います、超合理的と言ったような事申します、
ね、人間がただなかなかあちらは出来てござるとか、あっちは行き届いているとか、言うだけでですね、焦点を置いていったら、どうしてもそこには無理がいきます、ね、だから場合には道徳的ではない場合が沢山あります私の生き方には、けれども私の生き方は超道徳的だと、その道徳をもうひとつ超えたものだと、私は自分で思とります、ね、そこに人には認めてもらえなかったけれども、
神様が認めて下さったおかげでです、最近ではどうですか、言うなら中央の本部が段々私を認めてくれるようになったじゃないですか、ね、人はその後からでいいんです、神様にまず認められて、ね、そして私が教師になったとか、ね、教会にならして頂いたとか、言う事は本部が私を認めて下さったと言う印なんです、そして最近では合楽の信心と言うのが、
いつも話題に昇ると言う事が、段々認められかけてきたわけなのです。ね、ですからね、人に認められると言う事よりもね、神様に認められると言う生き方を、持ってしなければなりません、私共がね保証、例えばね何千万の金を掛けるじゃないですか、ですから私共心に掛ける、しかも和賀心に掛ける、天地の親神様のそれこそいついつまでも、その和賀心には保証して下さる、
慈悲には愛には保証はない、ね、言うなら和賀心にはおかげがあると仰る、和賀心になる和賀心と言う事にはおかげと言う保証がいつの時代にもつく、そこにですね、私は古うなっていけば古うなって行く程です、新しい生き生きとした値打ちのある信心が出来る、今金光教がまだ百年あまりの時にです、ここん所を本気で教団全体が分ってです、ここん所を進めて行く、
お上品な所から少しはね、厚かましいとか、下品とか言われても構わんから、教団全体がですね、私は脱皮すると言うか最近、うーん言われております体質改善と言ったような事が言われますがね、そう言う所が根本的に体質改善されなければ、ならない時期に教団はある、まあそれに先駆けて合楽はここをきずかせて頂いて、そこを押し広げ進めて行こうとしておる訳でありますから、
ね、今申しましたように皆さんの一人一人が、和賀心運動に署名捺印しておられるひとつ気持ちでね、ここん所押し進めて行かなければならんと思うですね。どうぞ。